美空ひばりの死因は特発性間質性肺炎による呼吸不全!なった理由がやばい!

美空ひばりさんは昭和を代表する歌手です。

女性として初めて国民栄誉賞を受賞しました。

今回は美空ひばりさんの死因についてお話していきます。

美空ひばりの死因は梅毒やがんは嘘!本当は特発性間質性肺炎による呼吸不全!


美空ひばりさんは52歳という若さでこの世を去りました。

1989年6月24日午前0時28分。

波乱万丈だった美空ひばりさんの52年の人生に幕が下ろされました。

死因は「特発性間質性肺炎」の悪化による呼吸不全です。

ひばりさんは愛煙家でしたので死因は間質性肺炎による呼吸不全で亡くなってます。お酒も15歳から飲んでいて結婚した小林旭さんとも仕事の忙しさで愛しているのに離婚しなければいけない状況になって暴飲暴食をするようになりました。生活習慣の乱れで自らの身体を悪くしていたのが致命的でした。

引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/

美空ひばりさんの死因は肺炎だと公表されていますが、がんや梅毒との噂もありました。

そう噂された理由は複数の病気を患っていたためです。

美空ひばりさんは複数の病気と闘いながら歌手活動をしておりました。

1985年5月、美空ひばりさんんが47歳の時のことです。

ひばりさんの誕生日記念ゴルフコンペの最中に、ひばりさんは原因不明の腰痛を訴えたことからもう始まっていたのです。

49歳の頃に公演先で体調不良に陥り緊急入院。

そこでは重度の慢性肝炎(肝硬変)と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され入院療養します。

ですが退院後も病状は一進一退で回復しませんでした。

それでもひばりさんは痛む身体を押し殺してコンサートを行っていました。

最中、肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態にも陥りますが、それでもコンサートを強行します。

1989年2月7日の九州厚生年金会館での公演が、美空ひばりさんの生涯最後のステージとなりました。

この時楽屋では酸素気吸入器と医師が待機していたそうです。

 

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2019年5月29日発売アルバム 『美空ひばりトリビュート Respect HIBARI -30 years from 1989-』 5.歌は我が命 / 倖田來未 今回こんなに素敵なトリビュートアルバムに参加させて頂き、本当に幸せです。 歌い継いでいきたい楽曲がたくさんあり、 そして、歌い継いでいきたいアーティストさんがたくさんいらっしゃり。 本当に幸せでしかありません。 私の歌わせて頂いた『歌は我が命』は、歌手として「生きる道、何があってもあなたがいる限り歌い続けていく」と力強く、心に決意した楽曲です。 私もコンサートで歌わせて頂く際には、いつも、自分の決めた道、心に誓った夢を、そして待っていてくださる方を想いながら歌わせて頂いています。 ファンの方が居て下さる限り、 私の声がなくなるまで、 歌い続けたいと心から思います。 これからも、 皆さんの心の中で、 ひばりさんの歌声が響きますように。 #美空ひばり さん #トリビュート #アルバム #日本 #歌謡 #歌は我が命 #倖田來未 #kodakumi #平成 #から #令和 #時代 #が変われど #歌い継がれる #名曲

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肝硬変を患っていた時にがんや梅毒を患っていたのではないかと勘違いされました。

ですが、この時期の体調不良に限っては肝硬変によるものであって、梅毒やがんが原因ではありませんでした。

ではなぜ複数の病気を患ってしまったのでしょうか?それは相次ぐ親しい者を失う悲痛に耐えかねて、酒とタバコに手を染めてしまったためです。

そして1980年代に入り美空ひばりさんが40歳に突入した頃、まわりの親友、肉親たちの急死が相次いだのです。

1981年ひばりさんが44歳の時、ステージママとして長年二人三脚で歩んできた母・喜美枝さんが転移性脳腫瘍で亡くなります。

そして、父親代わりとしてひばりさんを可愛がってくれた田岡組組長・田岡一雄さんが亡くなりました。

いろいろな意味で後ろ盾となってくれていたふたりを、美空ひばりさんは一気に失うことになったのです。

そしてそれから翌年の1982年には三人娘から美空ひばりさんにとってよきライバルであり、大親友でもあり一緒にたくさんお酒を飲んだ江利チエミさんが45歳という若さで急死しました。

このときにはさすがに、美空ひばりさんもショックを隠しきれず友人のいづみや中村メイコさんたちと号泣してしまったそうです。

さらにその翌年の1983年には、母を失っただけではなく、不肖の弟であるかとう哲也さんも42歳という若さで心不全のためになくなります。

1984年には「銭形平次」で18年間の間、銭形平次という主役を演じていた大川橋蔵さんも死去。。「銭形平次」の最終回には、美空ひばりさんが特別出演したりと親交があっただけにかなりショックだったことが想像できます。

母親や友人を失い悲嘆にくれている美空ひばりさん。

悲しみを紛らわすためにどんどん酒の量とタバコの量は増えていきます。

そして、酒を飲んでは泣き「美空ひばりには神様はついているけど、加藤和枝としては神様はいない。」と泣きながら飲むという生活です。
※加藤和枝さんは美空ひばりさんの本名です。

とにかくあびるように飲み、明け方の4時ぐらいまで飲んでいても翌日二日酔いで仕事にならないことはなく、仕事への影響は一切なくキーを下げて歌うことなど全くなく、明け方まで飲んでいたとは思えない力量で、仕事に支障をきたすことは一切なかったと言います。

美空ひばりさんは母親が亡くなって、今まではなにかにつけて母親が娘をコントロールしていきましたが、増えたお酒にしても「もう飲んじゃだめ」とストップをかける人がいなくなったのです。

「私はママが亡くなってから(身内で)一番偉くなったから、周りに『お酒』といえばどんどん持って来てくれる人ばかり。メイコが帰ってからひとりでまた飲んでいたの」「止めてくれる人がいるっていうことは幸せなのよ

引用:http://japan.techinsight.jp/

これは美空ひばりさんが大親友でありよく飲んだ女優の中村メイコさんに話した言葉です。

中村メイコさんは「今でも、あの言葉を思い出すと涙が出てくる…」と語っています。

 

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TBSラジオ 『ラジオで語る昭和の文化』 6月30日今夜のゲストは女優の柚希礼音さんです。 星組のトップスターとして活躍された柚希さん✨✨ 宝塚での日々、新作ミュージカルへの思いを じっくり伺います。 . 放送はradikoでも。お時間ありましたらぜひ(^^) . #tbsラジオ #文化の泉#サンスター#ラジオで語る昭和の文化#ラジオ#新番組#感謝#昭和#平成#令和#宝塚#宝塚歌劇団#タカラヅカ#星組#トップスター#タカラジェンヌ #中村メイコ #柚希礼音 #元NHKアナウンサー #内藤裕子 #radio#tbsradio#radiko#sunstar#work#takarazuka #japan_of_insta#tokyo #japan

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美空ひばりさんへの不幸はまだ続きます。

1986年にはひもう一人の弟・香山武彦さんも亡くなったのです。

1987年にはひばりさんと親交が深かった昭和の大スター、鶴田浩二さんと石原裕次郎さんも次々と不帰の人となります。

1980年代に入って母親や父親代わり、そして実の弟をふたりも失うだけではなく、自分と同年代の大親友まで失い、ますます淋しさや悲しみを酒で紛らわすという日々を送るようになります。

かなりの大量のお酒を飲んでいたため、脚は壊死に向かい肝臓もアルコールに蝕んでいき原因不明の痛みは激痛となり、そのまま入院することになります。

そして闘病の日々を送ることになりました。

ここまで次々と親しい者に去られると酒やタバコに逃げたくなる気持ちもわかりますよね。

 

「特発性間質性肺炎」とはどんな病気!

 

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憎や 恋しや 塩屋の岬 . 美空ひばりの名曲、みだれ髪の一節に登場する灯台。 一度病いに倒れたひばりが、不死鳥のように再起して復活した一曲は、暗闇の遠くからでも光って見える灯台に自身の境遇を重ねてイメージされたといいます。 . . #instatravel #福島 #いわき #東北 #歌手 #美空ひばり #landscapephotography #写真好きな人と繋がりたい #fukushima #singer #instapicture #lighthouse #カメラ好きな人と繋がりたい #誰かに見せたい風景 #写真 #相馬 #灯台 #instagramjapan #常磐 #旅写真 #昭和 #過去pic #田舎 #浜通り #過去空 #visitjapan #復興 #がんばろう福島

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特発性間質性肺炎はかなり厄介な病気なようです。

美空ひばりさんを死に追いやった「特発性間質性肺炎」とはどのような病気なのでしょうか?

特発性間質性肺炎は、原因不明(特発性)の間質性(肺胞隔壁に広範囲に及ぶびまん性)の炎症が起きる肺炎(特定疾患)だ。

引用:http://healthpress.jp

特発性肺繊維症は中高年以降に呼吸困難や乾いた咳からはじまり、それはゆっくり進行していきます。

そして4~5年で呼吸不全が現れて死亡する確率が高くなります。

治療を行ったとしても5年生存率は約36%。

10年生存率は約20%と言われる難病。

病気の進行はかなりゆっくりです。

そのため美空ひばりさんも無理をしてステージに立ち続けていたのでしょう。

肺がんを引き起こす原因にもなりうるようですし、かなりつらい闘病生活だったと思います。

 

特発性間質性肺炎を招いたのは酒(アルコール)の多量摂取や喫煙過多か

病気の直接的な原因はわかっていないようですが、喫煙ではないかと言われています。

美空ひばりさんは「特発性間質性肺炎」と同時に、「重度の肝硬変」を併発していました。

最愛のお母様を亡くされてからひばりさんは「酒」と「タバコ」に手を染めるようになったと言われています。

肝硬変は飲酒、特発性間質性肺炎は喫煙が原因だと思われます。

 

美空ひばりの死因にセンナ茶(痩せ薬)が影響!


美空ひばりさんは病気になってから毎日の食事は玄米とお茶だけでした。

その食生活が原因で早死にしてしまったという説もあるのです。

また、一緒に飲んでいたお茶はセンナ茶と言われる便秘に効く薬で痩せ薬としても有名でした。

一般的に玄米は健康食品ですから、それが早死につながったとは考えにくいですが、ほかに食事をとっていなかったみたいですから栄養が足りていなかったのかもしれませんね。

 

センナ茶を飲むように指示させた謎の医師がいた!

 

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最近また聴くようになった ひばりさんの曲 亡くなった祖母が大好きで 私も大好き。 特集番組があればテレビに かじりついて見てるくらい 秀樹さんのとき同じで 好きって言うとえーって言われるけど 人の好きなもの批判したり 引く前に 自信持てるくらいの好きなもの あるのか!って今は言いたい。 母も私が見てると一緒に動画見てる。 私が生まれる3年前くらいに 亡くなった方で 動画でしか見れないけど 大好き! ふとしたときいろいろ検索して 見てしまうほど。 #美空ひばり #不死鳥コンサート

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美空ひばりさんの食生活は医者から指示されたものだったようです。

美空ひばりさんの治療に関わっていたのが、ハワード・ヤングという医師で、医師独自の治療によって肝臓の機能を6割まで回復させますが、再び肝臓を悪くして美空ひばりさんは永眠しています。

その治療法とは玄米だけを食べる食事療法であり、低タンパク質の食事になるので体重が少なくなり急激な血圧の低下を招き、死因の1つになったと言われています。

かなり怪しい治療ですが美空ひばりさんはこの方を頼るしかなかったのでしょうか。

出典:https://lenachama.com

このハワード・ヤングは韓国系のアメリカ人で、1990年ごろには約600人の顧客が国内におり、特に政治家や大物経営者などの顧客が多くおり、芸能人にも多数の顧客がいたそうです。

この方の治療で高峰三枝子さんも早死にしてしまったようです。

最終的にこの方は2003年3月17日に出入国管理及び難民認定法違反で逮捕されました。

怪しい治療法による逮捕ではなく、別の罪で逮捕されました。

非常に怪しいハワードヤングですが、美空ひばりさんにとっては頼みの綱だったのでしょう。

 

美空ひばりの死因に山口組の関与はなくとも関係がやばい!


美空ひばりさんが活躍していた昭和時代は地方で営業をする際にその土地の暴力団に挨拶をしなければならないという暗黙の了解がありました。

挨拶にいかないと公演を妨害されたり、嫌がらせを受けるといった妨害行為が実際にあったと言われています。

美空ひばりさんも例外ではなく、地方で活動をする際には挨拶に行っていました。

山口組へ挨拶にも行ったことがあるようです。

当時の関西地方は山口組が仕切っていたそうで、関西巡業の時には美空ひばりさんも必ず山口組に挨拶しに行っていたそう。

それは美空ひばりさんが11歳の時のこと。

美空ひばりさんはお母様と共に、山口組三代目組長・田岡一雄さんの前でも物怖じせず堂々と挨拶したとの話しが残っています。

当時の山口組の組長の前に挨拶に行ったときに美空ひばりさんは生歌を披露します。

出典:http://takabeya.com/

11歳の美空ひばりさんを見た田岡組長は、ひばりさんのオーラと無限の可能性を感じ歌を披露してくれと要求しました。

ひばりさんは藤山一郎さんの「影を慕いて」を見事に歌い上げたのです。

その歌声に感動した山口組の組長は美空ひばりさんを「生涯に渡って守ろう」と誓いました。

その後ある事件をきっかけに美空ひばりさんと山口組の関係はより親密なものになります。

昭和32年に美空ひばりさんがファンの少女から顔に塩酸をかけられる事件が起きたのをきっかけに、田岡一雄から庇護してもらうようになり「神戸のおじさん」「御嬢」と呼び合うなど家族ぐるみの付き合いに。

引用:https://kantaiki0219.com

1958年に田岡一雄さんは「神戸芸能社」という会社を立ち上げました。

その「神戸芸能社」に美空ひばりさんは所属し、ひばりさんの弟・かとう哲也さんが山口組の組員になりました。

こうして美空ひばりさんと山口組は深い関係に陥ってしまったのです。

ですが美空ひばりさんの死因に山口組は全く関係がありません。

 

美空ひばりの死ぬ間際がやばい

 

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美空ひばり魅力のすべて/ ‘68年 #misorahibari #美空ひばり #原信夫とシャープスアンドフラッツ #wamono #和モノ

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お酒を浴びるように飲み、タバコの量が増えた美空ひばりさんの体の変調は1985年5月の、美空ひばりさんの誕生日記念で開催されたゴルフコンペ中に起こります。

突如、腰痛に襲われた美空ひばりさんはそれでも精力的にツアーを続けましたが、無理し続けたことが祟って1987年の四国公演中に耐えられないほどの激痛に見舞われます。

医師の診断の結果は、重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症とマスコミから報じられましたが、美空ひばりさんの周囲が世間に大きな不安を抱かせないように症状を軽く報告しただけで、実はさらに重症の肝硬変を発症していたのです。

 

闘病しながらの全国ツアー

「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています。あわてない慌てない、ひとやすみ一休み。もう一度歌いたいという信念が消えません。ひばりは生きております

引用: https://www.excite.co.jp/

歌うことを辞めたくなかった美空ひばりさんは、体が悲鳴を上げてもなお自分を騙しながら全国ツアーを続けました。

美空ひばりさんは1987年8月3日に退院をすると、ファンの前に笑顔で姿を現しました。

退院後の涙の会見では「お酒は止めますが、歌は辞めません」とコメントし、全国のファンを安堵させましたが、美空ひばりさんの肝硬変は6割程度しか回復していない上に、大腿骨頭壊死は進行中でした。

この6割程度がハワード・ヤングの治療の成果ということでしょうか。

 

完全復帰を印象づけた伝説のコンサート

出典: https://dot.asahi.com/

美空ひばりさんの歌手人生でも大一番となったのは1988年4月11日に東京ドームで開催されたコンサート「不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」で、普通なら立っていられないほどの足腰の激痛に気力だけで耐えながら39曲を熱唱しました。

一時は再起不能説まで飛び交った状態を払拭するために力を振り絞った東京ドームでのコンサートでした。

その時に身近にいた美空ひばりさんの息子・和也さんは、母親の美空ひばりさんがコンサートを出来るような身体ではないことを知りコンサートの準備段階で大反対をしますが、東京ドームでのコンサート準備はどんどん進み昭和天皇が崩御してから約1ヵ月後の1989年2月5日に、東京ドームで不死鳥コンサートが行われました。

この公演は美空ひばりさんが命を削ってまで歌いきったという、伝説のコンサートであり歩けるような状態ではない身体でしたが、花道100メートルを歩きコンサートに集まっている沢山の美空ひばりファンたちに、花道を歩きながら手をふることで「美空ひばりは全快!」というアピールをしました。

ギリギリの状態で脚の激痛にも耐えながらも、39曲もの曲を歌いきった美空ひばりとして東京ドームのステージで100メートルの花道を歩いて、ゴールのところで待っていたのは息子・和也さんでした。

そして息子の・和也さんの下へ倒れこむように身を任せ、そのまま救急車で病院まで搬送されたようです。

 

生涯最後の名曲「川の流れのように」

美空ひばりさんの代表曲である「川の流れのように」は、美空ひばりさんが亡くなる直前に「お願いだからこれだけは私に決めさせて!」 と自身の希望を押し通し自らアルバム「不死鳥パートII」からシングルカットを望み実現した曲でした。

美空ひばりさんは「川の流れのように」という曲について次のように語っています。

「もう”川の流れのように”という1曲聴いていただくと、10曲全てがわかるんじゃないでしょうか。これからの私が大海へ流れる川であるのか?それとも何処かへそれちゃう川であるのか?それは誰にも分からないのでねだから”愛燦燦”とはまた違う意味の人生の歌じゃないかなって思います。」

引用: http://www.tapthepop.net/

また作詞した秋元康さんにはこんなことを語っています。

 「秋元さん、この曲はいいよね。1滴の雨が木の根を伝ってせせらぎが小川になる。やがて大河になってゆっくりと海にたどり着く。人生っていうのも同じように真っ直ぐだったり、曲がっていたり、流れが速かったり、遅かったり本当に川の流れのようなものなのよ。でもね、最後はみんな同じ海にそそいでいるのよ。」

引用: http://www.tapthepop.net/

美空ひばりさんは、死期を前にして、この1曲に、これまでの自分の歌手人生全てが表されていることを感じ取っていたのでしょう。

 

「歌は我が命」で命を燃やし尽くす

 

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AIでよみがえる 美空ひばり 凄い時代ですね🎤 #美空ひばり #ai時代 #再現力 #昭和 #秋元康作詞

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1989年、美空ひばりさんは激しい痛みを持つ脚と慢性肝炎という身体で立っているのが不思議な状態でありながらもコンサートツアーに出ています。

全国ツアー「歌は我が命」を福岡県博多区にある福岡サンパレスからスタートさせましたが、肝硬変が悪化してチアノーゼを引き起こしてしまいます。そんな状態であり足元はふらつきながらも無事に公演を終えました。

周囲が大反対をする中を、美空ひばりさん自身が強く押し切る形で翌日の小倉でのコンサートを強行します。

このステージが美空ひばりさんの生涯で最後のステージとなりましたが、新幹線や車で福岡から小倉まで移動することに、身体が耐え切れないまでに衰えていたたため移動手段はヘリコプターでの移動となり楽屋に到着するや否や、すぐに横になり楽屋には酸素吸入器と医師が控えている状態で、全部で20曲を歌いきる小倉でのコンサートをやり遂げました。

小倉でコンサートを終えて翌日には、再び検査入院しています。

また福岡から東京へ帰京する時の移動も、ヘリコプターを使ってでした。かなり体力が衰えて限界を超えていたのでしょう。

それでも美空ひばりさんは、自分自身の故郷横浜に竣工した「横浜アリーナ」のこけら落し公演の舞台に立つことに対して、並々ならぬ執念を燃やしていました。

立っていることもやっとなほど、新幹線で移動することも無理なほど体力が落ちている身体でありながらも、はってでも舞台に出たいとしていたのには理由がありました。

公開された美空ひばりさんの日記には「和也を男にするためにも、はってでも舞台にでたい」 それはこの横浜アリーナでのコンサートが、息子・和也さんがプロデューサーとしてデビューする予定になっていたからです。

息子・和也さんを男にするために、なんとしてでもはってでも舞台に立つという執念を燃やしていましたが、残念なことにその願いは叶いませでした。

 

ファンへの最後のメッセージを病室で録音

美空ひばりさんは小倉での公演を何とか終えた後も、横浜アリーナでのこけら落し公演になんとしてでも出演したいと願っていたようですが、ついにそれは叶うことはありませんでした。

そして、1989年3月21日に美空ひばりさんは人生で最後のメディア出演として、ラジオに自宅から生放送で出演しました。

美空ひばりさんはラジオの終盤には下記のようなコメントを残しています。

「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」

引用: https://www.excite.co.jp/

このラジオ番組への出演の後、美空ひばりさんは死因でもある間質性肺炎の病状が次第に悪化していきます。

美空ひばりさんが間質性肺炎になった理由は分からないそうですが、喫煙過多が影響したのでは言われています。

また有効な治療法とされるステロイドホルモンが肝硬変に副作用を起こす可能性からほとんど使用ができなかったそうです。

再入院をした美空ひばりさんはメディア出演をする力は残っておらず、5月27日に病室でファンへのメッセージを録音します。

「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つなよ!私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」――。

引用: https://www.asagei.com/

このメッセージが美空ひばりさんが世に残した最後の言葉となりました。

 

最後の誕生日も病室

1989年5月29日、美空ひばりさんは病床で52歳の誕生日を迎えました。しかし、それから間もなく病状は悪化し、人工呼吸器が装着されることになります。

自分の運命を覚悟したかに見えた美空ひばりさんは、「このまま‥‥死ぬんじゃないの!? 悔しい!」涙交じりにしぼり出すような声でそう言ったといいます。

「その頃からだんだんしゃべることが少なくなって『ごめんね』『ありがとう』としか言わなくなった。僕も何も言えなくて、ずっと見つめていることが多くなりました。亡くなる日も何か言わなきゃと思っているうちに『ごめんね』って言われちゃって‥‥。それで、おふくろがまた何か言おうとしたので、言葉を制して『大丈夫だよ』と言って病室を出てきたんです。それが最後の会話になりました」

引用: https://www.asagei.com/

1989年6月24日の午前0時28分、美空ひばりさんは再び不死鳥として復活することを果たすことなく、この世を去ってしまいました。

死因は特発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全でした。

 

多くの著名人が参列した美空ひばりの葬儀!現在も命日、6月24日にはツイッターで追想される

美空ひばりさんの葬儀は1989年7月22日に青山葬儀所で執り行われ、ファン4万2千人が弔問しました。

葬儀には芸能界からも美空ひばりさんと親交のあった王貞治さん、和田アキ子さん、石橋貴明さん、北島三郎さん、森昌子さんなどほかにも名だたる歌手やタレントが葬儀に参加しました。

そして、参列した歌手らにより美空ひばりさんの代表曲「川の流れのように」が歌われて、美空ひばりさんの霊前へ捧げられました。

美空ひばりさんの戒名は慈唱院美空日和清大姉で、横浜市港南区にある横浜市営日野公園墓地に埋葬されています。

美空ひばりさんの命日の6月24日はファンの追想メッセージで溢れています。

今もなお美空ひばりさんは愛され、これからも彼女が歌った歌は未来永劫のではないでしょうか。

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